写真もストリーミングサービスで鑑賞できるようにすればいいんじゃないの、という話を友人としていた。いまどき、なんでもサブスクリプションモデルになっている。小説や漫画は電子書籍という形で読めるし、これはモノを購入するというよりは閲覧する権限を買っているような感じだ。映画や音楽はストリーミングで楽しめる。月額いくらで、見放題、聴き放題、という仕組みになっている。かつて私たちはDVDやCDといった物理的メディアを所有することでそのコンテンツを楽しむ権利を確保していたものだが、いまやコンテンツはデジタルデータとしてネットワークを流れるものとなり、私たちはメディアという不純物ではなくコンテンツそのものに対して対価を支払うことができる。いやもちろんネットワークにも物理層があり、インフラを維持するのはコストがかかるのだけれど。ただ12cmの円盤をプレスしてあっちこっちに運ぶことに比べたら、データのコピーなんていくらでもできる。メディアによる拘束を逃れて、純然たるコンテンツへ。紙の束から文字データへ、光ディスクから音声データへ、印画紙から画像データへ。
だからアートもまたメディアを逃れてコンテンツへと純化されていくだろう。と言えるかというと、それは本質的に不可能であると気づく。クレメント・グリーンバーグが指摘するように、メディアへの偏執的な関心こそがモダンアートの核にあるから。
絵画のミディアムを構成している諸々の制限——平面的な表面、支持体の形体、顔料の特性——は、古大家たちによっては潜在的もしくは間接的にしか認識され得ない消極的な要因として取り扱われていた。モダニズムの絵画は、これら同じ制限を隠さずに認識されるべき積極的な要因だと見なすようになってきた。
「モダニズムの絵画」(グリーンバーグ批評選集)
さまざまな文化がテクノロジーの進歩によりコンテンツへと純化されるのを尻目に、メディアそのものの可能性を探求するモダンアート。だからデータストリーミングをメディアとするならば、その特性を積極的要因として追求しなければ気が済まない。なので特にメディアアートと呼ばれるジャンルが存在する。
現在、この事態にはもう一捻りが加わっていると思う。メディアへと向かうアートと、コンテンツへと向かうカルチャー。両者ともに、そのときその場での1回限りの経験へと回帰している気がする。CDは売れないがライブやフェスは盛り上がる音楽業界。一方で、現代アートの中心は絵画や彫刻などではなく、インスタレーションである。あらゆるメディアを利用することが推奨され、その時間その場所での「体験」を生み出すアート。写真がどこに身を置けばいいのか、それはよくわからない。