カメラの目がもう一つの世界を照らし出す。あるいは、カメラの目がもう一つの世界からわたしたちを照らしている。
わたしにとって写真はどこまでも即物的な記録媒体であり、内面の表現や心理の描写といったことにはほとんど興味を持てなかった。しかしこの作品へと至る撮影の中で、何か目に見えぬものがここに在るという手触りが否定しがたい実感として迫ってきた。これは情緒や感傷ではなく、むしろ違和感といってよい。可能なものは存在せず、存在するものだけが存在する。ならばもう一つの世界、可能世界は、いかにして見出されるのか。実は、事態は逆さまなのではないか。可能世界を通してはじめて、わたしたちは現実世界を現実として認識できる。世界がこのようであること、それについてわたしたちは、このようではなかったかもしれない世界の観念を抜きにして考えることができない。現実は単に経験された事実ではなく、可能性を背景にして意味を持った他ならぬこの世界として構築される。可能世界といったとき、遊戯のように野放図に、空へ向かって分岐していく多元宇宙を想像してはならない。そうではなく、それはむしろ現実の裏側に張り付き、それを支える地下茎のようにつねに密かに在る。言語が入れ替え可能な要素で構成されながらも、音声として話され文字として書かれる言葉は単線的であるように、写真もまた異なる複数の視点を蔵しながら、わたしたちが手にするのは二次元平面の画像だけだ。それは光学的事象でありながら、同時に形而上学に属している。
夜の闇が要求する数十秒の露光時間を待ちながら、可能なる世界を思い浮かべてみる。それらはすべて、すでに潰えた分岐線でありながら、歩きまわる死人のように生き生きとしている。ありえたかもしれない時間軸の木構造を、可能世界の地下茎を、結び目から結び目へと進み遡り、探索=横断する。順序などなく、手当たり次第に、やみくもに。