子どもの頃、決定論の発見に興奮した。(原因と結果という概念はあまりに形而上学的と思われるから、ここではよりニュートラルな、条件と条件付きのものといういい方を採用しよう)、世界のすべてが条件から条件付きのものへの連鎖であるならば、すべては最初から決定されている。私たちの能力が有限であるためにその秩序の全貌を知りえないというだけで、すべては必然の内にあり、時間の始まりから終わり(そういうものがあるとすれば)までに生起するあらゆる事象はあらかじめ確定している。私がこのように書くことも決まっていた、と書くことも決まっていた、と書くことも(このようにして無限に進む)決まっていた。子どもはもちろん難しいことばも知らないし思考の発展性も持ち合わせていないから、「全部決まってる、すごい」と思っただけだ。しかしこの発想は、科学的であり反駁の余地ない完璧な真理に思えた。なにしろ、この件についてのあなたの反論も同意も、決定されているとおりなのだ。
誤解を避けるために付言しておくと、これは運命論とは別である。運命論においてはある特権的なできごとがその出来を保証され、その残余には不確定性が認められる。どうでもよい揺れ動くフラグメントと、重大な意味を持つイベントとの対照がある。決定論においては、そうした意味論は無効化される。すべてはフラットで、どんな些細な事柄も平等にゆるぎなく固定されている。
時間軸の端から端までを含む全宇宙が凝固した連続体としてあらわれる。全要素は隙間なく詰め合わされており、変形も組み替えも許されない。こうした認識は、人に諦念をもたらすだろうか、それともやけっぱちな行動をうながすだろうか。「すべては決定されていると認識する主体」という矛盾は、むしろヒューモラスなあり方で人に力を、自由を与えはしないだろうか。
連続体が法則に貫かれているとすれば、任意の切断面から、それと隣り合う切断面を推定することが可能であるはずだ。推定を際限なく繰り返せば、全時空間を見通すことができる。任意の切断面が全体を予告する。
あらゆる切断面に、すべてが写っている。