見るのをながめることはできる

「見るのをながめることはできる。それに対して聞くのを聞くことはできない。」と、マルセル・デュシャンは述べている。たしかに、聴覚によってとらえられる射程(聴野、ということばはあるようだが、ここで言いたいのとは別の意味らしい)のうちに「耳」が登場することはないが、視野のうちには「目」が登場しうる。その目は、おそらく他人の目であり何を見ているのかはわからないが、ともかく何かを見ているに違いない。そのようにして私たちは、見るのをながめることができる。あるいは私たちは、誰かの視線を感じる。そちらに目をやると、一対の目が私を指している。目が合う。私を誰かが見るのを私がながめている。

見る、見られる、とはどういうことなのか。現代美術の創始者とも目されるこの芸術家の謎めいた記述の断片が、視覚芸術の条件を示しているとしたら、どうだろうか。絵を見る、とはどういうことなのか。彼の墓に刻まれたことば、「されど、死ぬのはいつも他人」という墓碑銘を思い起こせば、ここで何が問題とされているのかは明らかだろう。なぜ死はいつも他人のものなのか。なぜ私は私自身の死について何も知らず、決して知ることがないのか。それが私の独我論的地平の圏外に位置するからだ。語りうる世界の時間的限界が死と名付けられているからだ。一方で私は私の死についてよく知っている。いつの日か心臓が止まり、呼吸がやみ、意識は闇に消え、私の肉体はその活動を終えてエントロピー増大則の不可逆性に飲み込まれていくことを知っている。他人が死ぬときとまったく同じように、だ。本当に?

急いで付け加えなければならないのは、私たちは「現代美術」に限った話をしているわけではないという点だ。彼が「網膜的絵画」という言い方で芸術批判を展開したことはよく知られているが、彼は正確にはこう語っている。「クールベ以来、絵画は網膜に向けられたものだと信じられてきました。〔…〕以前は、絵画はもっと別の機能を持っていました。それは宗教的でも、哲学的でも、道徳的でもありえたのです。」そう、モダンアートの勃興以前には機能していたものが「クールベ以降」で見失われ、絵画は網膜的なものと成り果ててしまったが、かつての機能を取り戻すべく奮闘しているのが、あのレディメイド以降の現代美術なのだ。彼はしばしば誤解されるように芸術の伝統の破壊者であるよりも、その伝統を復興しようと目論む保守主義者である。

超越論的主体の位置、世界を観察する「目」のありようが問われている。私の目に世界のすべてが映る。その意味で私の目は特別なものだ。だが私は私の目もまたこの世界に無数に存在する他人の目と同等の、ある一対の目にすぎないことを知っている。この世界に登場することのない特別な目。見るのをながめることが不可能であるような特権的な目。しかしそのまなざしに出会うことがありうるとしたら。「この私」と「任意のひとりの人間」との断絶を不可思議にも調停して重ね合わせてしまう力動の(失敗の)現場を、目撃することがあるとしたら。その機能こそが伝統的に芸術と呼ばれてきたものなのではないか。宗教的とも哲学的とも道徳的とも言える、その体験が「網膜的ではない」絵画のもたらす実りの中でも最も本質的なものではないだろうか。

Pictureを見るとき、ごくまれにではあるかもしれないが、私たちは誰かのまなざしのうちにいることに気付く。