被差別者としての写真、あるいは「旅しないカメラ」のために

美術史において、写真はあたかも被差別者のようだ。

それはまず劣ったものとして、美的価値の欠けたものとして、謎めいた新技術として歴史に現れる。それは人々に視覚的衝撃を与えるスペクタクルであり、画家にたいして写実というものに関する何らかの態度変更を迫るようなショックをもたらすものではあるが、それ自体が芸術作品であるとは認められない。威厳、唯一性、個性、天才の手捌き、そうした要素を欠いていたから。

だからそれは芸術を目指すにあたって、自らに似た特徴を持つメディウム、限定された二次元平面に展開する画像、すなわち絵画たることを目指す。ピクトリアルであること、タブローの歴史が練り上げてきた美学を模倣することによってそれは「名誉絵画」の地位を手に入れることもできただろう。

だがもちろん絵画に似ていることがそれのすべてではない。やがてそれは独自の美学を獲得し誰も歩んだことのない道を行かざるをえなくなる。シャッターを押し込む指が誰のものであっても気にかけないというその急進的な平等性、ありのままの光をその化学的反応のうちに見境なく取り込んでしまう写実性、機械的に「窓から覗き見たような」遠近法を実現してしまうその構成力。瞬間性、記録性、複製可能性。被写体が「かつてそこにあった」ことを否応なく鑑賞者に思い起こさせる再現性。さまざまな性質の追求が、それを独立したメディウムとして美術史に刻み込んできた。

この後の話はいささか込み入ってくる。現代美術の自己否定性は、ねじれた論理によって写真を巻き込みながら先鋭化する。誰もが知るように現代においては美しいことよりも美しくないことのほうが芸術作品の条件となりうるのだし、意味がありそうなことよりは無意味としか思えないことこそが作品であり、重要であるよりもとるに足らないものが作品になりえるし、芸術作品にはとても見えないことにおいてこそ作品はむしろ芸術らしいとみなされる。美術による美術の絶え間ない自己否定こそがその歴史を駆動する。であるならば、機材の発達によっていっそう拍車がかかる写真のアマチュアリズムは、「芸術と呼ぶに値しないもの」としての芸術としての輝きを逆説的にももたらすことになる。写真を用いることが反美学のジェスチャーともなるだろうし、その素人臭さを強調することが芸術性の論拠ともなりうるのだ。

社会における差別のアナロジーとして写真史を語ってみることに、いくばくかの意義はあるのだと主張してみたい。なぜなら、近代における芸術作品と人間との間には、本質的な共通点があるからだ。それらはいずれも「手段としてのみならず、目的として扱われねばならない」という倫理的命令のもとにある。「役に立たない」ものであること、より正確には役に立つかどうかを問われ得ない仕方で存在する特殊なもの。芸術や人間にはかけがえのない価値がある、などと誤解してはならない。それらはただ、あらゆる価値判断を停止させる空虚な座をひらく。

カメラはどこに旅をすることもなく、芸術性と人間性の動揺を見つめている。

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というわけで、グループ展に参加します。今日から1週間の展示です。
場所: 東京都 新宿 Place M
期間: 2020.03.02 – 2020.03.08
時間: 12:00―19:00
Traveling 8 旅しないカメラ