写真展「North by Northwest」のための文章

2024.07.15 – 07.21 Place Mにて開催した個展のための文章です。


バリ島の踊り子は、方位が分からないと踊れなくなることがあると言います。車に乗せられ、曲がりくねった道を通って知らない場所へ連れて行かれると、遠く望む山の形などから東西南北の方角を読み取るまでは、うまく踊れないというのです。これは奇妙なことに見えます。踊りのような動作をするだけであれば、相対的な位置、今立っている所から右へ一歩踏み込むとか、相手がいるなら向かい合ってお辞儀をするとか、そのような関係性を把握できれば事足りるはずです。私たちは北がどちらか知らなくても歯を磨けるし、郵便局まで歩いていけるし、三角関数を解くことができます。必要な範囲での相対的な方向さえ分ればよいのです。中間的な領域を一足飛びにして方位を参照するのは、宗教的な信念や呪術的な迷妄にすぎないように思えます。でも、絶対的な座標軸がわからないと(あるいは少なくとも誰かがそれを知っている、と信じていないと)、私たちだってなんだか不安にならないでしょうか?

タイトルがこの映画の全体を象徴している …コンパスには“north by northwest”などというものは存在しない。

と監督のアルフレッド・ヒッチコックが語っている通り、『北北西に進路を取れ』という邦題は誤訳です。北北西は実在するので、無理やり訳すなら「北微北西」とでもすべきでしょう。昔見た映画の内容をろくに覚えていないのですが、主人公が「North by northwestに進路を取れ!」と叫ぶシーンは多分ありませんでしたし、今回の展示も、半世紀以上前のスリラー映画やバリ島のダンスとは、特に関係ありません。


一種のファンタジーだ。タイトルがフィルム全体の縮図となっている——羅針盤に “north by northwest” などというものは存在しない。映画製作において我々が自由な抽象に接近する領域はファンタジーを思うままに用いることであり、これが私の扱うものだ。私は “人生の断片” を扱うようなことはしない。

アルフレッド・ヒッチコック『北北西に進路を取れ』(原題:North by Northwest) について
ピーター・ボグダノヴィッチによるインタビュー

言語の中で世界を限界づけ、際立たせようとする試みが、再三生じてくる。しかしそれは成就しない。世界が自明であることは、言語が専ら世界だけを意味し、又意味しうる、ということにまさしく表現されているのである。


表象を「諸対象の我々の精神内での像」(等々)と呼ぶ表現様式と全く同様に、記憶を像と呼ぶ表現様式が単なる比喩にすぎないことは無論明らかである。像とは何かを我々は知っているが、表象は決して像ではない。というのも普通我々は像と、像があらわすもとの対象の両者を見ることができるのに対し、今の場合は明らかに事情は全く異なるからである。我々はまさに比喩を使用したのであり、そしていまや比喩が我々に圧制をしいている。この比喩の言語においては、比喩の外へと動くことはできない。

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『哲学的考察』

「ケンブリッジへ行く道を知っている」というのは、地図で調べたから道順を教えられるという意味にもなれば、途中の光景を詳細に思い出すことができるという意味にもなる。また、思い起こせることはわずかでも、車で道をたどれば景色に見覚えがあるという意味にもなる。あるいは車でケンブリッジに向かうとき、ほとんど道順を意識せずに、習慣によって自然と右折左折ができるという意味にもなりうる。その他、さまざまなケースを列挙することができるはずだ。いずれにせよ、ここでわれわれが相手にする冗長性またはパターンづけは、相当に複雑な種類のものである。
    [(“I know . . . ” / my mind) / / the road]
厄介なのは、この丸括弧のなかのパターン化のようすである。「わたしのマインド」のどの部分で知っているどんな知を、どの部分が「知っている」と意識するのだろう?

グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学へ(上)』

You said an interesting thing earlier, Tommy. When you were discussing this with Marie-Claude. You said it was because your art would reveal what you were like. What you were like inside. That’s what you said, wasn’t it? Well, you weren’t far wrong about that. We took away your art because we thought it would reveal your souls. Or to put it more finely, we did it to prove you had souls at all.

Kazuo Ishiguro “Never Let Me Go”

二十世紀後期のブランド・マーケティングへの移行は、広告を効果的にするには、必ずしも消費者の合理性に訴えるまでもないという発見に基づいたものだ。実のところ、商品を買う理由を与える必要などはない。ブランドとは信頼であり、信頼はひたすら感情的で直感的なアピールによって育まれる。かくして、広告はどんどん消費者の合理性をまったく無視しようと努めている。


もし人々が近頃は「通(savvy)」ーーもっといい言葉は「冷やか」だろうがーーになったのだとしたら、それは疑いをもって商品への直感的反応を扱い、そうして抑制する傾向が強まっているからだ。だから包装の色やブランド名から店に流れる音楽や店内の照明まであらゆるもので、自分たちが操作されていることを自覚している。それでも、あれこれの要因を無視するよう無意識をプログラムし直すのは不可能であることは理解しておかなければならない。

ジョセフ・ヒース『啓蒙思想2.0〔新版〕 政治・経済・生活を正気に戻すために』

近代性の諸条件のもとでは、芸術作品を制作し、これを公にする方法は二通りある。一つは商品として、もう一つは政治的プロパガンダの道具として。これら二つの制度のもとで作られたアートの数は、おおよそ等分と見ることができよう。しかし、現代の美術界の状況では、商品としての芸術の歴史に多くの注意が払われ、政治的プロパガンダとしての芸術への注目は少なかった。


避けがたい疑いとして、標準的なアート・マーケットの条件下で制作されたのでない芸術を排除する理由は、ただ一つしかないように思われる。それはすなわち、芸術を支配する言説が、芸術とアート・マーケットを同一視し、マーケット以外のメカニズムによって制作され伝播されるいかなる芸術にも盲目でありつづけているためである。

ボリス・グロイス『アート・パワー』

いまや比喩が我々に圧制をしいている、とルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは書き付けています。ある事柄について語るとき、私たちはどうしても比喩に頼らざるを得ず、言葉によって何かを記述することの限界に突き当たります。二十世紀を代表する哲学者がこの地点で逡巡して思わず敗北を認めてしまう様子に、私たちもまた立ち尽くしてしまいます。比喩とは何でしょうか。言葉を、別の言葉で置き換えることです。とても早く走ることを、風のように走る、と直喩で表現できます。彼は風となった、であれば隠喩ですが、それほど違いはありません。いずれも、表現したい事柄と共通の性質を持つ別の事物を持ち込むレトリックです。直接的な言い方と、比喩的な言い方が成り立ちます。では、心の扉を開く、ならどうでしょう。心に扉は付いていませんので明らかにこれは比喩ですが、しかしこれをより直接的な表現に切り戻すのは困難です。比喩でしか言えないこともあるようです。ウィトゲンシュタインが何の話をしていたかというと、表象の話です。まるで写真のように私たちの心の中に浮かぶ、あの表象は、いかにして現実にあるものと一致したりしなかったりするのか。風景写真と実際の風景を見比べて、この写真はこの場所で撮影されたのだ、と確認することはできます。では、私は新宿御苑前の街並みを知っている、フォトギャラリーまで歩いていく道順も分かっている、と言い、実際に地下鉄の駅を出て地上の風景を目にしたとき、私は何と何の一致を確認すればよいでしょう。記憶の中に写真のように焼き付けられた像を取り出して、目から入ってきた像と比較すれば良さそうです。つまり私の中には写真アルバムのような記憶の倉庫があり、写真のようなものを広げて並べられる机のようなスペースがあり、外界を眺められる覗き窓があり、それらを比較検討する小人がいて、そしてまた小人の頭の中では… これではあまりにも安易な比喩に溺れて、偽の問題に捕らわれてしまいます。一方で外的な事実を挿入して、うまく説明した気になるのもおかしなことです。すなわち、ニューロンとシナプスのネットワークについていくら詳しくなっても、そのような科学の語らいが、言葉がそれ自身の限界に阻まれるような領域に、新たな知見をもたらす見込みはないでしょう。言葉の内側で考えること、これは一見閉ざされた思考に過ぎない感じがします。でも驚くべきことに、内側に閉じこもり続けることでしか触れられない、そのような外側が、あるようなのです。

情報の追加が世界に冗長性をもたらします。無駄に長い、とはどういうことかと言うと、一方から他方をある程度の確率で推測できるということです。箱の中に白い猫が一匹いる、という文章が誰かの口から発せられるのを聞くことと、箱を開けてみたら白い猫がいたという事実、この2つの事柄を並べてみたとき、これらは冗長です。箱に猫がいるという言語的情報から、それに対応する現実を推測できます。これが言葉によって事実の伝達を試みるときに起きていることです。もちろん言語を用いなくても冗長性は出現します。高層ビルが林立する西新宿の風景があり、一方に西新宿の朝と題された絵があるとします。この絵が幕で覆われて隠されていても、私たちはそれがどのような絵であるか、推測できます。ジャングルやシマウマが描かれている確率よりも、東京都庁舎やスーツ姿で行き交う人々が描かれている確率のほうがずっと高いのです。今日は朝から雨が降り続いている、という発話を耳にしてからカーテンをあける場合、窓の外に見えるものをある程度推測できます。降り注ぐ陽光を目にする確率よりも、黒く濡れたアスファルトを傘をさして歩く人がいる確率のほうが高い。もちろん逆方向の推測もできます。窓の外を確認してから、天気はどうだったと客人に尋ねる場合、その答えをあらかじめ推測することができます。世界は、冗長です。ハリウッドブロックバスター映画を最後まで観なくても、主人公がヴィランをついには打ち倒すことを私たちは推測できますし、番犬が烈しく吠える声から闖入者の来訪を推測できますし、夕焼けを遮る雲の様子から明日の天気を推測できます。総体としてみれば、情報としては、無駄に長いのです。私たちは絶え間なくこのような推測を行ない、それに基づいて生きています。私たちは今、様々なレイヤーについて冗長性という語でひとくくりに述べてしまいました。意図的なコミュニケーションの問題として整理してしまえば、シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)、そしてメッセージのエンコード(コードへの変換)とデコード(コードからの変換)という枠組みで説明できます。送信者は伝えるべき事象をメッセージへと変換し、受信者は送信者とあらかじめ共有していた一定のルールに従ってこれを解読することで意味内容を受け取り、その事象を知ります。日本語でも手旗信号でも事態は同様ですし、それほど不思議なことはない気がしますが、グレゴリー・ベイトソンの思索は、もっとずっと神秘的な迷路に踏み込んでいきます。この冗長性が、私たちの意識の動き、たとえば、知っている、という状態動詞を介した関係についての話となると、ややこしくなってきます。箱の中に猫がいる、という発話と、それに対応する事実との間の冗長性を考えられるなら、その事実を知っているという私の意識の状態と、その事実との間の冗長性を考えることもできます。そしてその意識の状態を認識する意識、すなわち知っていると知っている私は、どこにいるでしょう。リンゴは万有引力の法則を知っているから地面へと落下する、と強弁することはできますが、これはおそらく知るという単語の誤用として片付けられます。柴犬は換毛期を知っています。春の次には暑い夏が訪れることを知っていて、ふわふわのアンダーコートを減らしてやや硬い夏毛に着替えたほうが体熱を放出しやすいことも知っています。でもこの知は、私が長期天気予報を見て週末には衣替えをしようと決断するような知り方とはかなり異なるものです。遺伝や本能といった概念に収まる部分もありそうですが、区別は簡単ではありません。人間の行動であれば、もっと明瞭に分類できるでしょうか。経済について考えてみれば、私たちはミクロ経済学や需要曲線と供給曲線の均衡点について勉強したことはあります。でも資本制システム全体が誰のどのような知に基づいて動いているかと言えば、これについて人々はほとんど何も知らずに日々ものを売り買いして暮らしていることは驚きです。経済学者が需要と供給をバランスさせる理論を発明したことによってではなく、市場は昔からとにかくそのように機能しています。神の見えざる手がなんとかしてくれているようです。ところが人々はそれなりに、自分が何をしているかを意識できているつもりでいます。知っているとしても、それは無意識的な知なのだ、などと言うこともできますが、これも本能と同様、なんでも詰め込んでしまえる言葉です。知っていると知っている私について、私たちはほとんど何も知りません。

ある隠された(と言ってもそれはある意味では別に隠されていないのですが)目的のために、子供たちは外界から隔絶した全寮制学校で育てられます。思春期の少年少女たちのさまざまに甘酸っぱい切ないエピソードが積み重ねられていき、それはこの物語の核にある残酷さと見事なコントラストをなしており、実に苦い感慨を読者のうちに引き起こすよう綿密に構成された文学作品なのですが、中でも忘れがたい挿話は、芸術そのものに関わっています。ヘールシャムと呼ばれるこの学校では美術教育が熱心に行われており、生徒には創作活動が奨励されています。定期的な展示会のおりには外部から招かれたギャラリストが講評し、優れた作品を買い上げていきます。それらはどこか外の世界の画廊で収集展示されるのだと言われます。時が経ち、学校を卒業して社会で暮らすようになった主人公たちは、ついにヘールシャムの秘密を訊き出す機会を得ます。なぜ私たちは芸術作品を作るよう促され、そのうち優れたものが評価され、外部へと持ち去られていったのか。私たちがある目的に供されるためだけに作られたのなら、芸術活動など余計なことだったのではないか。エミリ女史は答えます。あなたはいつか興味深いことを言った、トミー。アートは自分がどんなふうであるかを明らかにするんだって。自分の内側がどんなふうか。あなたはそう言ったでしょう? ええ、そんなに間違ってはいない。私たちは、それがあなたたちの魂を明らかにするものだと考えて、あなたたちのアートを持ち去った。より細やかに云うなら、そもそもあなたたちには魂があるのだ、と証し立てるために、そうした。――どのようなものであるかを示すことは、前提として、それの存在を含意します。その意味で、芸術を魂の存在証明として用いうるというわけです。このくだりで私たちがトミーやキャシーとともに茫然とするのは、すぐれてサイエンスフィクション的な詩情とともに論理階型のずれ込みが発生し、足元の地面が崩れ落ちるように感じるためです。問題とされていたのはその有り様ではなく存在そのもの、すなわち魂の実在に対して疑いが向けられているのです。あなたが『わたしを離さないで』を読んでいなくても構いません。なにしろ、ヘールシャムで育てられかわいそうな宿命を背負わされた、すべてを知らされていながら何も知らない子どもたちとは、端的に私たちであるからです。人間の内面を、魂を、あからさまにする作品。一般にイメージされる芸術はまさにそのようなものでしょう。孤高の天才の、内面から溢れ出る、唯一無二の表現。クロード・モネ。フィンセント・ファン・ゴッホ。パブロ・ピカソ。美術館を訪れるときに人々が期待するのは、芸術家の魂の発露に触れることです。内面の十全な表出、それは優れた美術の指標のひとつです。しかるに、現代美術の展示を訪れるとき、そのような期待は砕かれます。鑑賞者が目にするのは、美しくないもの、取るに足らないもの、オリジナルでないもの、絵画らしくない絵、彫刻らしくないオブジェ、個人の記録、がらくた、既製品、残りもの、出来事の痕跡、とうてい芸術には見えないような何かであり、むしろ芸術らしくないことが芸術の条件とされているかのようです。小説の中では、子どもたちの作品について具体的な描写はされていませんので、それがどんなものであるかは読者の想像に委ねられています。ジョルジュ・ルオーやマルク・シャガールのような作風でしょうか。百歩譲って、ジャクソン・ポロックや草間彌生のような作品かもしれません。ぶち撒けられた絵の具や、執拗に描き込まれた無数の水玉から、精神の深みを覗くことはできるかもしれません。でも、アンディ・ウォーホル、マルセル・デュシャンとなると、物語が成り立たなくなりそうです。一所懸命にキャンバスに絵の具を塗り付けているさまが見て取れればまだそこから魂の在り処を看取できそうですが、著名人の写真のコピーや既成の工業製品となると、いったい何をどう感じ取ればよいのか、途方に暮れてしまいます。美術、の前に、現代、が付くと、どうも魂の形からは遠のいてしまうようです。ヘールシャムにおける魂の芸術と、現代美術との間には、埋めがたい溝があります。どんな卓越した現代美術家であっても、完全に閉ざされた全寮制学校の中では作品を作り出せないはずです。なぜならコンテンポラリーなアーティストは、美術史や社会や政治、時間軸と空間へそれぞれ広がっている文脈なしには仕事ができないからです。シニカルな云い方をすれば、それはハイコンテクストすぎて自立する力を持たない脆弱な存在であり、曖昧なルールで戦われるスノッブなゲームの駒です。

少年少女たちの青春や恋や友情の物語を長々と描いた後、最後の一行に、実のところ彼らには魂が無かったのだ、と書き加えることは、読者を白けさせるのを気にしなければ可能です。カズオ・イシグロがやったのは、そのようなことでしょうか。そんな単純なことではなさそうです。ラブロマンスを延々と描いた後に、でもそれは真実の愛ではなかったのだ、と展開する小説なら、まだ成立しそうです。彼は不倫していた、肉体やカネが目当てでしかなかったのだ、などなどの筋書きです。愛や友情や信仰のような観念には、個別の行為には還元できない超越性があり、その本質が露呈するとか見透かされるといった事態を想定できます。些細な綻びをきっかけに真実が明らかになったとき、過去に遡って行為の意味が書き直されます。あのとき彼は甘い言葉を囁いた、私は愛を感じた、でも思い違いだった、あれは私を繋ぎ止めるための偽りだったのだ、のように。こんな悲劇的な真実の暴露であれば、文学的な感興を呼び起こすこともあるでしょう。ここで考えたいのは、もっと即物的な例です。彼の手の甲に針を突き刺します。痛い、と叫び声をあげ、傷からは赤い血が流れます。ここで、彼は痛みを感じてはいない、彼は真の意味では痛みを感じない、と述べることにどの程度の意義があるのか、が問題です。あなたは実験的にこれを確かめようとするかもしれません。頬をはたいて反応を見ることもできます。本当のところはどうなのか、本人を問い詰めることもできます。彼を解剖台に縛り付けて、神経回路を調べたり、脳波を計測してもよいのです。でもどんな事実を反証として並べたとしても、彼は本当は痛くはないのだ、と主張することはできます。少し言い方を変えるなら、彼の痛みは、私のこのような痛みではないのだ、と。このような、という語に傍点を付けてイタリック体にしていくら強調しても足りません。このような痛みと彼の痛みの差異は、あのような痛みとあのような痛みの差異や、A氏の痛みとB氏の痛みの差異とは、まったく異なる差異です。ありがちな誤解を避けるために申し添えておくと、これは認識の問題ではありません。私の見ている青と彼の見ている青は異なるかもしれない、という例示では、認識の質的な差が問題になっているように捉えられてしまいます。彼の目にはもっと暗い色に見えているとか、赤味がかっているかもしれないとか、それはそれで問題ではありますが、私たちが直面しているのは厳密に言葉の意味の深淵です。同じであるとか違っているとか言いうる、この言語が前提としているものが何であるのかを問うています。別の言い方をすれば、様々な青の見え方があるとして、そのうちのただ一つの見え方だけが私の見え方であり、他はそうではないのは何故なのか。この問いを縁取っているのが指示代名詞であることに注意するべきです。この私の、この感覚を語ろうとするとき、一般名詞で言い換えることはできません。こうした指示代名詞の代替となりうる文法要素は、固有名しかありません。固有名は翻訳されず、記述の束にも還元されません。現代美術作品の最も抽象的で簡潔な定義として、芸術とは固有名である、と言うことはできます。これが芸術なのだ、と指し示すことしかできないのだとすれば、私にとっては、と付け加えることは蛇足に過ぎません。私にとっては、とか、彼にとっては、などという相対性とは隔絶した意味において、これ、と名指しているのです。

ニュートンの時代には、人々は万有引力の法則を頼りに天体の運動を記述しました。20世紀になると、相対性理論が登場し、量子力学が打ち立てられます。では、19世紀までの天体は万有引力の法則に従っていたのに、20世紀に入ってからは相対性理論に従うようになったでしょうか。そんなはずはありません。物理学の進歩は人間の認識の変化にすぎず、自然は昔も今も同じように運動しています。謎めいた宇宙の摂理が、科学の進展によって徐々に明らかにされてきたのです。ところが美術の分野に目を転じると、あたかも惑星がその時代に知られていた理論に従って運航しているかのようです。ルネサンス美術は近世ヨーロッパの遠近法やヒューマニズムに従い、近代美術はアヴァンギャルドなりフォルマリズムなりに従います。なぜなのか、と考えるに、簡単なことで、理論も作品も人間が作っているからです。人が創り出した作品と人が作り出した理論が相関しているだけです。と、言い切ることはできません。私たちが博物館と美術館を訪れるときに期待しているものは、異なります。前者については、ある時代の作品がその時代の論理によって作られ、あるいは遠く離れた地域の作品がその地域の論理によって生まれ、最新の研究によってどのように説明されているかを学びとることで知的好奇心を満足させるでしょう。後者については、知識欲を満たすこと以上の経験、情感的で美的な体験を私たちは期待するはずです。美術史の基礎のいくらかが近代における捏造であるという不都合を考慮に入れたとしても、そこには何か、普遍的な真理、美、魂が、あるような気がしています。アニメのキャラクターが荒野を疾走する様子を思い浮かべてください。あまりに慌てて走っているので、前方の崖に気付かず、そのまま空中に走り出てしまいます。彼はまだ落下しません。なぜなら足の下に地面が無いことを自覚していないからです。ふと立ち止まり、足元を見て、そこが空中であることを知ったときに始めて彼は落下します。現実を再構成する知、物理法則を捻じ曲げてしまう知、こと美術館においては、これは単なる絵空事ではないように思えます。重力を無視するかのように、自律的な論理と実践の円環が宙に浮かびます。ポストモダンな芸術理論によって美術制度の虚構性が証明されたとしても、まったく無傷のままの美があるように見えます。絵そのものが突然、美しくなくなることはあるでしょうか。あるとき猫が可愛くなくなることは、ありうるでしょうか。愛猫家の友人、会うといつも猫の話をしていたような人が、ある日突然猫への興味も愛情も失って、その話題をだすと、ああ、あの猫たちなら、世話するのも面倒だし、人にあげちゃったよ、と素っ気なく応えたら、私たちは訝しむでしょう。何かとんでもない出来事があって、人格が変わってしまったかと疑うかもしれません。でも何もありません。その前の状態すなわち無類の猫好きである状態が正常である一方、その後の状態すなわち猫に何の興味もない状態も正常です。世の中には動物に興味がない人もたくさんいます。ただ、その変化は奇妙です。頭を強くぶつけたのでもなく、凶暴な猫に襲われたのでもない。きっかけも何もなく、また意識や記憶も問題なく持続しているのに、愛情だけが消え去ってしまいました。精神疾患を疑うにしても、その他の所見はありませんので、猫愛情喪失症候群とでも言うしかありません。まるで魂をどこかに落としてきたようです。このような事態が実際にはあまり起きないのは、興味や魂といったものが、ぽろりと落としてしまうおそれのある鞠のような実体ではなく、間主観的で編み目のようなものだからです。と言って不安を押し殺すことは一応可能ではあります。

原題の”North by Northwest”という羅針盤上に存在しない方位が象徴するとおり、映画『北北西に進路を取れ』は、嘘が真理に置き換わる物語です。ロジャー・ソーンヒルは、スパイ、それも存在しないスパイと間違われ、追われ、命からがら逃げ延び、色仕掛けで翻弄され、その中で彼自身が手にした欲望に執着し、正義や利他的な精神よりはむしろ薄汚れたリビドーをもって、執着し続けることで彼にしか為し得ない事を成し遂げます。プロローグにおいて、ソーンヒルの職業がこのテーマを暗示しています。彼は広告会社の重役なのです。尊大な態度で秘書にあれこれと言いつけながら、ビジネス街の人混みをすり抜け、タクシーに乗り込もうとしていた男の前に割り込み、この女性は急病人ですので、と嘘をついて車を奪ってしまいます。白々しい嘘を秘書になじられると、彼は悪びれることなく、善行を施させてやったのさ、広告業界に嘘というものはない、と言い放ちます。たしかに、広告に嘘はありません。逆に言えば、すべては嘘だと誰もが知っています。いえ、かつては、広告は必ずしも嘘ではありませんでした。牧歌的な時代の広告は、売り込みたい製品の長所をくどくどと説明するものでした。20世紀を通じて広告のテクノロジーは進化していきますが、このにわか仕立てのスパイが活躍した1950年代のアメリカでは、広告は論理的に消費者を説得して自社プロダクトの優位性を理解させることをあきらめ、切り詰められたワンフレーズの印象でもって大衆の心理に購買欲を植え付ける戦略へとシフトしていました。自分にコーヒーブレイクのごほうびを。一杯飲めば、またすっきり。でもそんな創意工夫に富んだキャッチコピーで競い合った頃も、今は昔です。私たちが暮らす社会が徹頭徹尾広告に毒されていることは、周知の通りです。広告を見ずに済ませるにはカネがいります。どれだけのサブスクリプションに課金すれば広告に阻まれずにスマホを使えるでしょう。私たちは広告を信じません。誇張や粉飾であればまだしも、それが真っ赤な嘘やホラ話であっても、別に驚きはしません。あるいは商品や企業とは何ら関係ないイメージかもしれません。にも関わらず、いずれにせよ、広告は機能します。正体を見抜くことでその機能を停止させられるわけではありません。清涼飲料水の広告で相貌の良い女が爽やかに喉を潤しているのを見たからといって、私たちはそれが他社の商品よりも優れているのだと理解するわけでもありませんが、自動販売機のボタンを迷いなく押すときにそのイメージが私のチョイスを左右していないとは言い切れません。個々の選択について、広告の効果であるとかないとか言うことに意義はないでしょう。ただマーケティング担当者の作成する資料の上では、統計的に効果が証明されるはずです。世界中の最も優秀な頭脳が、広告をタップするよう私たちの指を誘導する策を案出することに費やされています。それに対して私の貧相な頭脳は、思考を乱されないように理性をもってつねに誘惑に抗い続けねばなりません。おや、かわいい猫ちゃんの笑えるハプニング動画が視界に入ってきた、いや、私はただ友人の消息を知りたくてタイムラインをスクロールしていたんだった、こんな動画で暇潰ししている場合じゃない、胸糞悪いサイコホラー漫画のコマが視界をよぎったが続きなんて気にならない、全然気にならないぞ、広告をまたぐように画面のスミをなぞってスクロールして、次のページに遷移、また全画面広告だ、閉じるボタンはどこだ、右上に薄っすらとバツ印があるから指先を細長く伸ばしてタップして閉じて、ドンキで完売アソコドーピング絶対やってドンキで完売アソコドーピング絶対やって、私は何か調べようとして検索していたのではなかったっけ、伊東家の裏技冷蔵庫のアレを塗ったらシミが一発で、冷蔵庫のアレって何だ、普通の主婦が十億円、壁穴壁穴壁穴。ジョセフ・ヒースが指摘するように、私たちの理性は総攻撃を受けているかのごとくです。広告を気にしないようにするだけのために、膨大な量の精神的努力が注がれますが、あまりむくわれません。相変わらず、あなたがスマホに向ける散漫な関心は、巨大プラットフォームを通して換金されて誰かの懐に流れます。今や資本主義の中心に広告があるのは明らかです。ただしそれは資本に貢献し促進するばかりではなく、むしろシステムに対して撹乱的で怪しげな香具師です。

スリラー映画の巨匠アルフレッド・ヒッチコックは「マクガフィン」を好んで活用しました。物語のかなめになりながらそれ自体は何でもよい、特異な点を占める物体のことです。Xを巡って敵と味方が争い、あるいはXが人類を救う鍵であったり国家の存亡に関わる秘密であったりします。登場人物たちにとってXは最重要なのですが、しかしこのXは作劇上または観客にとっては、とにかく何かでありさえすれば何であってもよいのです。本作におけるXすなわちマクガフィンは、骨董美術品です。その内部には国家機密が記されたフィルムが隠されており、当局の監視をかいくぐるためにアートマーケットを通じて受け渡されます。美術品オークション会場で敵に包囲されたソーンヒルは厄介な客を装い、めちゃくちゃな落札価格を喚くなどして警備員につまみ出され警察に連行されることで逆説的に追手から逃れます。芸術作品の値段は、投入された労働力や使用価値によって決まるわけではありません。アートワールドつまり芸術家や批評家や研究者や学芸員や美術館や画廊や出版社や収集家や愛好家が形作る漠然としたコミュニティ、権威や旧習に護られた閉鎖的な集団が価値を決めている、といくばくかの批難を込めて主張してもよいですが、金持ちからすれば、買ったときよりも高く売れるかもしれないそれは投機対象としてはもってこいです。その華々しい見せ物であるオークションにおいて、スパイに間違われた広告業界の男が美術マーケットの虚構性を告発しながら異分子として排除され、マクガフィンは敵方の手中に収まります。手の込んだ皮肉は、あたかも現代美術のパフォーマンスのようです。美術はこの商業主義に甘んじて埋没し、まったく何の役にも立たない、ただ将来において高値がつくかもしれないトークンとしての立場を受け容れているでしょうか。無論、アートは資本主義に対して批判もしています、というよりは、批判的態度が主流でしょう。一般的な素朴なイメージとして、芸術は商品経済の外部からやってきます。汚されていない心から、純粋な魂から、それは生まれ出てきます。モダンな美術はそんな素朴なレベルで争っているわけではありません。アーティストは巧みな戦略でマーケットを批判します。それでもやはり、アートは資本主義的であることから逃れられてはいません。市場は外部を際限なく内部へと取り込みながら運動します。お金で買えないものはありますが、結局のところ買えるのです。アートは何でもありで、何でもアートになります。ボリス・グロイスが指摘するように、アート作品は自身を矛盾した物体、パラドクスオブジェクトとして提示します。絵画であって絵画でない、幾何学模様が記されただけのキャンバス。彫刻であって彫刻でない、ただの工業製品。写真であって写真でない、デジタルデータの塵。最も重要でありつつ何であってもよいマクガフィン。貨幣は商品の一種でありつつ商品ではありません。物々交換を抽象化しただけでは貨幣は誕生しません。ロジカルタイプの飛躍、あらゆる商品の価値を測る単位となる立場への跳躍が必要です。ポテトチップスやティッシュペーパーとならんで貨幣が実在するのは、犬や猫と並んで動物という動物がいるようなものです。

抵抗の足がかりはどこにあるでしょう。おそらく、国家その他の集団を主体とする、政治的プロパガンダのツールとしての芸術以外にはありません。市場を前提とした言説によるなら、政治的作品は消極的に言っても不純で二次的な芸術であり、より強く言えば、全体主義に至る危険をはらむ道徳的に劣った唾棄すべき存在です。ドイツ・ナチズムの芸術、ソヴィエト連邦・スターリニズムの芸術、大日本帝国・天皇制ファシズムの芸術。大衆を扇動し、国威を発揚するための道具。それらが取り上げられる機会は批判的な文脈しかありません。例外的に、ロシアアヴァンギャルドと言われる革命期の芸術や、イタリアファシズムと共にあった未来派などはモダニズム芸術の言説空間にも居場所を与えられてはいます。内容に応じて是々非々で判断すればよいのでしょうか。モダンアートが切り拓いたのは、内容無しの形式、この上なくラディカルな平等主義だったのではないでしょうか。アールブリュットあるいはヘールシャムで製作されるような、一見マーケットとは関係なく生み出されるように思われる作品も、つねにすでにマーケットを前提としたディスクールに取り込まれ、その配下で芸術へと仕立て上げられます。アマチュア写真家がレンタルギャラリーで開催するささやかな個展も、どうせ一枚のプリントも売れることがないとしても、アートマーケット言説の末端に接しています。政治的意見を折り込みさえすれば外部に立てるわけでもありません。主張しすぎない程度に主張して、来場者に「考えさせる」のは常套手段です。これは表現の自由の範囲内か、などという問いはくだらないものです。国家権力による統制や法律論を語るならともかく、市民の感覚やせいぜい道徳規範によって表現の許容範囲を区切ることと自由との間には関係がありません。表現が自由になるのは表現を逸脱するときです。人々にとってそれは、迷惑、暴力、悪態、迫害、偽物、病気、害虫、汚点、欠陥、失敗などとして現れ、社会的領野に対しては政治行動として現れます。これはちょっと眉をひそめたくなるような表現だけど表現の自由の範囲内だから生暖かく見守っていよう、などと腕組みをして平静を装う暇は与えられません。ネーションステートによる扇動が、テロリストによる脅迫が、アクティヴィストによる抗議が、私たちに決断を迫ります。アートの苛烈な平等主義は、道徳的判断を宙吊りにします。資本主義的なアートが広告であることを定義上免れている一方で、民主主義社会における政治は全面的に広告的です。アートが広告に活用されることは許可されていますが、アートそのものは経済活動に汚されることのない無用な物として威厳を保ちます。政治家がコンサルタントを雇ってイメージ戦略に大枚をはたいている、といった事例が問題ではありませんし、衆愚政治を批判したいわけでもありません。大衆とか市民とか呼ばれる巨大な集合が政治の主体である以上、鍵になるのは一人ひとりの意思の足し算などではなく、群衆の力学です。現代人が政治を話題にするとき、私は誰それを支持する、などと直截的に語ることは滅多にありません。誰それのあのような広告の仕方では支持を集められないだろう、と語るのです。候補者の顔貌や選挙ポスターのデザインセンスやテレビ出演時のネクタイの色が投票行動にいかなる影響を及ぼしたか切り分ける手立ても意義もありませんが、選挙コンサルの統計資料には何らかの徴候があらわれているかもしれません。私たちは知っていながら騙されます。公約はキャッチコピーであり、その内容が事実であるか実現されるかではなく効果的にイメージを流布できるかどうかが問題です。そんなことは常識ですので騙される人はいませんが、総体としては嘘が機能します。政治宣伝は広告とともに進化してきました。商品の優位性を長ったらしく説くよりも、ビジュアルイメージによる認知への干渉と理性への爆撃のほうが効率的です。どちらかといえばここでは右派のやり口を非難しているように見えるでしょうが、左右の対立について話したいわけではありません。プロパガンダにおいてアートは道具へ成り下がります。四人の大統領たちが彫り込まれアメリカ合衆国の輝かしい政治史を讃えるラシュモア山記念碑、硬質な花崗岩をダイナマイトで粉砕しながら塑造された18メートルにも及ぶ堂々たる顔、それはネイティブ・アメリカンの聖地を踏みにじるものでもあるわけですが、その縁から落下した古美術品は砕け散り、中央情報局が探し求めていたフィルムがまろび出ます。重力に従い崖から滑落しようとするイヴ・ケンドールはすんでのところで救い出され、ロジャー・ソーンヒルは彼女の腕をつかんで引き上げますが、そこはもう寝台特急のベッドの上です。抱き合う男女を乗せた列車がトンネルへと突入する、サスペンス映画史上最も露骨で卑猥な隠喩で結ばれるこの終局は、深さに満ちています。巨大なモニュメントは自由と民主主義の栄光を歌うとともに後ろ暗い侵略の歴史を深みに隠します。国家機密が隠された美術品は深みへ落ち秘密を暴露します。嘘から産まれたロマンスは秘事をトンネルの闇に隠します。人々は芸術に深さを、解釈によって明らかにされる秘められた真理を期待します。神妙な面持ちでキャプションを読みながら、名画の秘密が自分の前にも立ち現れることを望みます。しかしこの映画であなたの印象に残るのはおそらく、ラストシーンよりも、Crop-dusterのシーン、農薬散布用小型飛行機による襲撃でしょう。この場面の深みの無さは異様です。地平線まで続く農耕地に挟まれた土埃の舞う道でバスから降りた男は、彼に降りかかった厄災の原因である謎のスパイ、ジョージ・キャプランが現れることを明るい陽光の下で待ち受けます。が、そんなスパイは存在せず、誰も来ません。来たかと思えば、無関係な通行人です。怪しい車が走ってきますが、通り過ぎるだけです。遠くを飛行機が飛んでいます。おかしいな、農薬散布機が、何も作物がないところを飛んでいる。そして爆撃が始まると、私たちはむしろ安心します。場面の意味が収斂するからです。この収斂の直前、飛行機が攻撃者としての存在理由を得る間際の、長い長い宙吊りの時間、何も隠されていない荒野に立ち尽くす時間が、いつまでも私たちの脳裡に淀んでいます。