言語論からはじめよう。ひとつのメッセージは、その背後に潜在的な要素を引き連れていてはじめてことばとして機能する。それは示差的なシニフィアンの体系であって、あるシニフィアンはほかのシニフィアンとの差異によってみずからの意味を担うことができている。「わたしは学校へ行く」という文は、「彼は学校へ行く」という文と等価な構造を持っていることが前提されたうえで理解される。「彼は郵便局へ行く」「彼は郵便局へ走る」、無限に近い連鎖がある。パロールを構成する要素は一定の法則に従い交換が可能なのであり、潜在的にほかでもありうるものとして、この文が伝達される。また、ラングとパロールは、相互に影響を与え合う動的関係にある。話者によってルールに則って記述されたメッセージが、聴者によってデコードされ理解される、という事態は、自然言語のごく限られた局面にすぎない。ラングは、文法書や辞書に記載された機械的な法則や一覧表ではない。それは間主観的なネットワークの中から遡及的に取り出される、いわば形而上的な構造であって、パロールなしのラングやその逆といったものは存在しない。
世田谷美術館で開催されている「ブルーノ・ムナーリ 役に立たない機械をつくった男」(2018年11月17日~2019年1月27日)で興味深かったのは、この作家がきわめて教育熱心であったことだ。鑑賞者はたんに作品を眺めるのではなく、移動し、作品を手に取り、あるいは持ち運ぶことをうながされる。機械ということばから想像されるような重々しさのない、モビールのような吊り下げられた彫刻。旅行のための彫刻、と題された、折りたたんでカバンに入れられそうな彫刻。抽象絵画のような奇妙な絵本は、子どもたちの感性を練り上げようとしている。ムナーリが目指しているのは、完璧な作品を作り上げることよりも、作品へと至る過程をなるべく多くの人々と共有することだ。あたかも鑑賞者を芸術家へと育てるように。万人が芸術家となるユートピアを夢見るかのように。
ボリス・グロイスは「平等な美学的権利について」(『アート・パワー』)において、近代美術の自律性を論じている。それは、あらゆる価値判断を拒否することで確保される領域だ。近現代の芸術家たちは、「例を提示してみせる」という戦略によって、このラディカルな平等性の陣地を拡張しようと試みる。
たとえば、カンディンスキーは抽象的なコンポジションを通じて、デュシャンはレディメイドの制作を通じて、そしてウォーホルは大衆文化の偶像を通じて、そのような例を提示してきた。ただし、これらのイメージが以後の芸術制作に与えたインパクトの源泉は、その排他性にあるのではない。むしろこれらのイメージが、イメージ自体の潜在的に無限な多様性を示しており、作品自体はその単なる例として機能するからこそ、インパクトがあるのである。
完成された作品が重要なのではない。これがひとつの例であること、すなわち、同様の例がほかにもありうるということ、これが示されなければならない。平等の理念に基づき置き換え可能な諸要素が形作る体系、それ自体を伝えねばならないのだが、しかしそれはあまりに抽象的であり直接指し示すのも困難だから、具体例が提供される。断片的な例から人々もやがてはその全体像を把握し、手助けなしにみずから例を示すことすらできるようになるのではないか?
ティエリー・ド・デューヴは『芸術の名において デュシャン以後のカント/デュシャンによるカント』の中で、芸術は固有名である、と定義している。しかし言語学のタームを用いて芸術を定義するならば、よりふさわしい言い方がある。芸術とはランガージュであり、作品はパロールであり、アーティストは作品を通じて固有のラングを話しているのだ、と。それは、そのアーティストが語り始めるよりも前には誰も話したことのないことばだ。その作品において、パロールが例示される。ラングを直接的に示すことはできないから(カンディンスキーのように懇切丁寧に「文法書」を書いてくれる芸術家は稀だろう)、触れることができるのはパロールだけだ。人々はそこからことばを学ばねばならない。作品の内容とは、何だろうか。「This is a pen.」という例文の意味は「これはペンです」ということになるが、しかし、そこで真に伝えられようとしているのはもちろん、「英語の話し方」だ。美術館には聞きなれないことばが溢れている。個々の意味は「郵便局はどこですか」であったり「コーヒーを1杯ください」であったりするだろうが、そのメタメッセージはつねにひとつしかない。−−この言語は、このように話すのだ。だから、鑑賞することは学ぶことなのだといってよい。それは美術の教科書に載っている歴史などを学ぶということではなく、聞いたこともないことばに耳を傾けるという意味において。
「反順序探索法」は、そのような言語論的構造として、世界を探索する方法である。