見せ物としての表現、あるいは表現としての見せ物、について考えている。あらたなメディアやテクノロジーが登場したとき、それらはまずは見せ物として受容されるはずだ。たとえば写真であれば、「目で見たままの光景を瞬時に(まあ初期には瞬時でもなかっただろうけど)保存し、あとから見られるようにしておく技術」として登場したのであり、それはまず見せ物として、つまり人々が目を見張るような驚異としてあらわれたはずだ。それはビックリするような仕掛けであり、大衆の興味を掻き立てることができる。しかしテクノロジーが普及し、人々が当該のメディアを見慣れてくると、何がそこに表現されているのか、という点に重点が移ってくる。作家が技術を使いこなして何らかの内容を伝達する、ということが可能になってくる。いわば、メディアは徐々に透明化していく。見せ物、見せられる物としてその存在を主張するのではなく、二次的な媒体として脇に退いて、それ自体は「見えなく」なる。かわって、表現が、意図が、内容が見えるようになる。いわゆる芸術性とか作品性といったものが前面に出てくる。写真よりも時代をくだるなら映画の話になるが、最初、人々は汽車がスクリーンから飛び出てきて自分が轢かれるかと錯覚し、逃げ出した。今やわれわれはスクリーンそのものを見ずに、ストーリーなり監督の意図なりを読み解くことが当たり前にできる。写真よりも遡るなら、絵画や版画や彫刻のさまざまなテクノロジーが、見せ物として登場しては、表現のほうへと変転していったにちがいない。ただ、モダニズムアート、現代アートを考慮にいれるとなると、そこには何か特殊な事情があって、あらたなテクノロジーが瞬時にそのまま表現性へと接続されているような気もする。難しい。で、ここで作品について考えるなら、見せ物としてでなく表現として語ることが正しいように思えるだろう。というか、作品ということばは表現というものと、ほとんど一体とみなされているかもしれない。だけれど、見せもの性というのは、そう単純に消滅するようなものだろうか。安易にメディアの向こう側へと急ぐのではなく、表面にとどまること。ある種の胡散臭さ、不純なものとして、作品をつくる、あるいは作品に至る手前でうろうろすること。